日本 史 鎌倉 幕府 の 滅亡

発行者: 02.03.2020

これによって、三位以上の公卿に認められる、家政機関 政所 の設置が公に認められ、それまで頼朝が独自に設置してきた 公文所 を政所と改め、官職・右近衛大将の略称である右大将に因み、右大将家政所と称した。それまで頼朝個人としての官職復帰や、東国沙汰権を拠り所としていた鎌倉の東国政権は、朝廷公認の家政機関としての位置付けを得て、統治機構としての正当性を獲得したのである。 建久 2年( 年 ) 1月15日 、鎌倉に帰還した頼朝は年頭行事や祝い事など画期に行われる 吉書始 を行い、右大将家政所を司る四等官として 政所 別当 に 大江広元 、令に主計允 二階堂行政 、案主に 藤井俊長 、知家事に中原光家をそれぞれ任じ、 問注所 執事 に三善善信、 侍所 別当に 和田義盛 、侍所所司に 梶原景時 、公事奉行人に藤原親能他6名、 京都守護 に外戚で公卿でもある 一条能保 、鎮西奉行人に内舎人 天野遠景 を任じ、鎌倉幕府の陣容を固めた。. 北条泰時 北条時氏 北条重時 北条長時 北条時茂 北条義宗 北条時村 北条兼時 北条久時 北条宗方 北条基時 北条時範 北条貞顕 北条時敦 北条範貞 北条仲時

元暦2年(年)3月24日には、 壇ノ浦の戦い で平氏を滅ぼすことに成功した頼朝は朝敵追討の功労者として平家の所有していた荘園、いわゆる 平家没官領 の支配権を要求して承認され、後に鎌倉殿直轄の荘園、関東御領と呼ばれる所領を獲得した。また、平家滅亡後、頼朝に叛旗を翻した弟・ 源義経 と叔父・ 源行家 が後白河法皇から頼朝追討の院宣を賜ると、頼朝はこれに抗議し、朝廷を頼朝の推薦した公卿を議奏として、議奏をもって朝廷の政治を担当させること、義経・行家追討の院宣を発すること、加えて、その追討のために東国及び畿内に守護及び地頭を置くことを認可し、さらに荘園公領を問わず、反別五升の 兵粮米 の徴収権を頼朝に与えることを求めた。いわゆる、 文治の勅許 である [注釈 4] 。.

こうして、名実ともに東国の支配権を確立していった頼朝は、 年 、行政を担当する公文所(後の 政所 )と司法を担当する 問注所 を置いて、政権の実態を形成していった。同時に、頼朝は弟の 源範頼 ・ 源義経 を派遣し、平氏追討に当たらせ、 年 、 壇ノ浦の戦い で平氏が滅亡し、6年に渡る内乱が終結した。. 鎌倉幕府の存立は、武士、特に関東武士団を基盤としていた。これらの武士は、「鎌倉殿」(=将軍)の家人となることで、鎌倉幕府の構成員となった。鎌倉殿の家人になった武士は 御家人 と呼ばれた。鎌倉殿と御家人の主従関係は、 御恩と奉公 と呼ばれる互恵関係によって保持された、この制度を御家人制度と呼ぶ。.

ヘルプ ヘルプ 井戸端 お知らせ バグの報告 寄付 ウィキペディアに関するお問い合わせ. その後、頼朝は東北に強大な独立勢力を築いていた 奥州藤原氏 を滅ぼし、建久元年(年)11月、 権 大納言 兼 右近衛大将 に任ぜられた(位階は既に 元暦 二年(年)に 従二位 に叙され、 文治 五年(年)に 正二位 に昇叙されていた)。. 表 話 編 歴 鎌倉幕府執権 北条時政 北条義時 北条泰時 北条経時 北条時頼 北条長時 北条政村 北条時宗 北条貞時 北条師時 北条宗宣 北条煕時 北条基時 北条高時 北条貞顕 北条守時

4 [10]. 4 2. 11 10. 58 .

のちに 征夷大将軍 となる 源頼朝 が創始し、 北条時政 ・ 北条義時 らを中心とした坂東武士が 鎌倉 に設立した 幕府 である。頼朝の死後、 御家人 の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は義時の嫡流である 得宗 が同幕府の支配者となった。武家政権は 室町幕府 ・ 江戸幕府 へと継承された。. 元暦2年(年)3月24日には、 壇ノ浦の戦い で平氏を滅ぼすことに成功した頼朝は朝敵追討の功労者として平家の所有していた荘園、いわゆる 平家没官領 の支配権を要求して承認され、後に鎌倉殿直轄の荘園、関東御領と呼ばれる所領を獲得した。また、平家滅亡後、頼朝に叛旗を翻した弟・ 源義経 と叔父・ 源行家 が後白河法皇から頼朝追討の院宣を賜ると、頼朝はこれに抗議し、朝廷を頼朝の推薦した公卿を議奏として、議奏をもって朝廷の政治を担当させること、義経・行家追討の院宣を発すること、加えて、その追討のために東国及び畿内に守護及び地頭を置くことを認可し、さらに荘園公領を問わず、反別五升の 兵粮米 の徴収権を頼朝に与えることを求めた。いわゆる、 文治の勅許 である [注釈 4] 。.

承久の乱後、急増した訴訟事件を公平に処理するため、泰時は明確な裁判基準を定めることとした。これが 御成敗式目 と呼ばれる法典( 武家法 )であり、平易で実際的な法令と評価されている。後の 室町幕府 も、この法令を原則として継承している。また、泰時は、式目制定に当たって、朝廷の司法権を侵害するものでないことを強調している。. 幕府側の主導で戦後処理が進められた。主謀者の後鳥羽上皇、そして後鳥羽の系譜の上皇・皇子が流罪に処せられ、 仲恭天皇 は退位、朝廷側の貴族・武士も多くが死罪とされた。当時の人々は、治天の君をはじめとする朝廷側の上皇・天皇・諸臣が処罰される事態に大きな衝撃を受けた。当時の社会における価値観は正反対に転換した。朝廷の威信は文字どおり地に落ち、幕府は朝廷監視のために 六波羅探題 を置き、朝廷に対する支配力を強めることとなる。. 表 話 編 歴 鎌倉幕府執権 北条時政 北条義時 北条泰時 北条経時 北条時頼 北条長時 北条政村 北条時宗 北条貞時 北条師時 北条宗宣 北条煕時 北条基時 北条高時 北条貞顕 北条守時 畿内で戦いが続くうちに、地方でも反幕府の機運は高まっていった。肥後の菊池氏、伊予の土井・得能氏らの有力御家人も反旗をひるがえした。後醍醐天皇は隠岐を脱出して 伯耆 ほうき の 名和長年 なわながとし ?~ に迎えられ、 船上山 せんじょうさん にこもった。天皇のもとには多くの武士がはせ参じた。.

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  • 詳細は「 治承・寿永の乱 」を参照.
  • カテゴリ : 鎌倉時代 鎌倉幕府 相模国 鎌倉市の歴史 源頼朝 12世紀設立 年廃止. 以上のように、鎌倉幕府は元々、源頼朝の私的政権に発している。この私的政権は、朝廷から承認されることによって、支配権の正統性を獲得していった。そのため、幕府の支配権の及ぶ範囲は 守護 の設置などで諸国の軍事・警察権を得たものの、支配は主として頼朝傘下の 御家人 に限られ、少なくとも承久の乱までは朝廷側勢力(権門勢家)の支配権を侵害しないことを原則としていた。また、幕府機構を見ると、朝廷のそれと大きく異なり、鎌倉殿の家政機関としての性格を色濃く残していた。.

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鎌倉幕府が滅亡するまで年表

詳細は「 元寇 」を参照. 新造の武家の都を飾る建設は続き、 源義朝 の 菩提 勝長寿院 や、 中尊寺 の二階大堂を模した 永福寺 、13世紀に入ると 寿福寺 ・ 東勝寺 といった 禅宗 の寺が次々に建立された。禅宗は特に保護されて、 北鎌倉 には渡来僧を 開山 とする 建長寺 や 円覚寺 などの巨刹が偉容を示す [23] 。. 文保 2年( 年 )、後醍醐天皇が即位。彼は天皇を中心とする政治体制の再構築を企てた。こうした姿勢は皇位継承問題をきっかけとして、幕府の得宗専制と衝突することとなった。.

まず 年 ( 治承 4年)に鎌倉の大倉郷に頼朝の邸となる 大倉御所 が置かれ、また 幕府 の統治機構の原型ともいうべき 侍所 が設置されて武家政権の実態が形成された。朝廷は 寿永二年十月宣旨 ( 年 )で頼朝に対し、 東国 における 荘園 ・ 公領 からの 官物 ・ 年貢 納入を保証させると同時に、頼朝による東国支配権を公認した。 壇ノ浦の戦い ( 年 )で 平氏 を滅ぼし、同年、 文治の勅許 (年)では頼朝へ与えられた諸国への守護・地頭職の設置・任免を許可した。そして 年 ( 建久 元年)頼朝が 権 大納言 兼 右近衛大将 に任じられ、 公卿 に列し 荘園領主 の家政機関たる 政所 開設の権を得たことで、いわば統治機構としての合法性を帯びるようになり、 年 には 征夷大将軍 の 宣下 がなされた。こうして、名実ともに武家政権として成立することとなった。 守護 の設置で諸国の治安維持を幕府は担当したものの、その支配は限定的であったが次第に範囲を拡大し、 承久の乱 や 元寇 を経て、 得宗 家の専制支配が全国的な支配権を確立するに至った。.

1 2. 42 3 [ 1]. 3 712 37912 [5] [ 5] .

日本史・世界史(目次) 日本史 詳説日本史 武家社会の成長 室町幕府の成立 鎌倉幕府の滅亡. 表 話 編 歴 六波羅探題 北方 北条泰時 北条時氏 北条重時 北条長時 北条時茂 北条義宗 北条時村 北条兼時 北条久時 北条宗方 北条基時 北条時範 北条貞顕 北条時敦 北条範貞 北条仲時 建久3年( 年 ) 7月12日 、頼朝は朝廷から征夷大将軍を宣下された。『 山槐記 』建久3年(年)7月9日条および12日条によると、頼朝が望んだのは「 大将軍 」であり、それを受けた朝廷で「惣官」「 征東大将軍 」「征夷大将軍」「 上将軍 」の四つの候補が提案されて検討された結果、平宗盛の任官した「惣官」や源義仲の任官した「征東大将軍」は凶例であるとして斥けられ、また「上将軍」も日本では先例がないとして、 坂上田村麻呂 の任官した「征夷大将軍」が吉例として選ばれたという。この時代においては名誉職化していた征夷大将軍に、 左大臣 にも相当する 正二位 という高位で就いたことは、軍権に基づく政権担当者という意味合いが加わり、これが幕府の主宰者に世襲されたことによって、鎌倉幕府は朝廷に代わる政権として名実ともに確立された。また、戦時において全国の兵馬を動員できる征夷大将軍への任命は、頼朝に非常大権を付与せしめることを意味した [5] [注釈 5] 。後に源頼朝は武家政権の始祖として武士に神聖視されることとなる。.

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[14] [15]. 4 [10]. 118. [9] [9] .

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やがて有力農民たちに由来する武士は、 武士団 の起源となり、都から派遣された下級貴族や官人層、さらに源氏や平氏など上級貴族を上位の棟梁として仰ぎ、主従関係を結ぶことによって本領安堵を確実なものとした。棟梁の戦に従軍し、新たな領地を与えられることで繁栄の糸口を得たのである [注釈 2] 。.

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コメント
Katsumi 09.03.2020 08:52 答える

六波羅陥落の翌日、 新田義貞 が 上野国 で挙兵し、騎だった軍勢は関東 御家人 の支持を得て数日のうちに大軍となった [14] 。これに対し、幕府は 桜田貞国 ・ 長崎高重 らを将に討伐軍を組織し、大軍で以てこれを迎撃させたが、彼らは 小手指原の戦い 、 久米川の戦い で敗れた [15] 。 北条泰家 の援軍が加わったのちも、 分倍河原の戦い 、 関戸の戦い で敗れ、幕府軍は鎌倉へと敗走し、新田勢は鎌倉へと迫った。.

Shuji 09.03.2020 14:45 答える

鎌倉幕府の存立は、武士、特に関東武士団を基盤としていた。これらの武士は、「鎌倉殿」(=将軍)の家人となることで、鎌倉幕府の構成員となった。鎌倉殿の家人になった武士は 御家人 と呼ばれた。鎌倉殿と御家人の主従関係は、 御恩と奉公 と呼ばれる互恵関係によって保持された、この制度を御家人制度と呼ぶ。.

Yoshie 10.03.2020 15:48 答える

やがて有力農民たちに由来する武士は、 武士団 の起源となり、都から派遣された下級貴族や官人層、さらに源氏や平氏など上級貴族を上位の棟梁として仰ぎ、主従関係を結ぶことによって本領安堵を確実なものとした。棟梁の戦に従軍し、新たな領地を与えられることで繁栄の糸口を得たのである [注釈 2] 。. 最終更新 年4月21日 火 (日時は 個人設定 で未設定ならば UTC )。 テキストは クリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンス の下で利用可能です。追加の条件が適用される場合があります。詳細は 利用規約 を参照してください。 プライバシー・ポリシー ウィキペディアについて 免責事項 開発者 統計 Cookieに関する声明 モバイルビュー.

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